の4つの記事でお届けします。
成功の時にも『一定の条件下で正しさを
証明するようなもの』と表現したと思いますが、
幸せも『一定の情報の範囲の中でなら機能する』ことが多いです。
例えば幸せの国ブータンでしたか、一時、国民の
90何パーセントが幸せを感じる国だったけども、
例えばインターネットが普及して、今迄みたいに
自国の生活とか自国のことだけを知るような生活から、
世界中ではこうなんだというのを当たり前に
知るようになっていったら、当然自分たちの生活以外にも
こんな生活があるという幸せを見てしまったりとか、
お金というのがあるとこういうことができるという
幸せを見てしまったりとかすると、今までの情報の中で
機能していた幸せではなくなっていくわけですよね。
例えば子供の時に私が家の用事をやらされて、
溝洗いをして、溝で掬ったやつをバケツで片道5分ぐらいの
ところ歩いて持って捨てにいったりとかしてて。
終わったらチロルチョコ1個もらって
「がんばったね!えらかったね」と言われて
得意になってそれで幸せやったのに、
じゃあ今同じことやってチロルチョコ1個やったら…
ということがありますよね。この50半ばを超えた、前よりは
ましになったとは言え正座ができない膝をかかえながら、
片道5分さらった溝の土を持って行ったのに、
終わって頭撫でてチロルチョコかって(笑)
だから自分の行いに対して、等しいもしくは等しい以上の
報酬ですよね、言葉であれ心であれお金であれ。
もらった時に人は幸せを感じるけれど、
そうじゃないと幸せではいられない。
それがさっき言った心の在り方で変わるということですよね。
その心の在り方を左右するのは、環境や状態、
あとは先ほど言った情報ですよね。
知ってしまっているから考えずとも比べてしまう。
自治会長に向かって「自治会長さん、
今の国の最低時給をご存じですか。
断じてチロルチョコ1個ではない」みたいな感じですよね。
ただ今の事例も幸せの定義というのが
『自分の行いが人の役に立ち、笑顔をむけてもらったり
ありがとうという言葉をいただいた時に、それが幸せだ』
と定義づけしている人は
「自分がやったことで自治会長さんが
あんなに喜んでくれた!」となるわけですよね。
そういった方はあまりそれ以外の情報をもう求めないみたいに、
広く浅く知る必要がなかったりもします。
良い悪いではなくそうなってるっていうだけですよね。
幸せの定義がなくて主観的で曖昧なのに、
何でか分かれへんけども皆期待するんですよね。
きっと結婚したら幸せになれるとか。
「いやー俺も家庭持って親になったら幸せになれるよ」
「年収700万超えたら今よりもっと幸せになれる。」
体験した人が聞いたら、それだけじゃなれないよと
思うじゃないですか。
でも不思議とそういうふうに思えてしまうものでもあります。
結婚したら幸せになれるんだと思って
大恋愛した人と結婚したら、思ってたのと違う、
夢で見てたのと違うみたいな感じですよね。
これは幸せに対して目標を達成するという
概念が働いてる人がそうなりやすいかもしれません。
結婚するということを一つ達成したとしたら、達成に向かう
その道筋と、達成した瞬間は当然幸せなんですよね。
でもそれが幸せだと認識したら本当はそれでOKなんだけども、
結婚当初は幸せやったけれども、
毎日一緒に暮らしていたらそうじゃなくなってしまう。
家庭持って親になったらというのも、結婚するまでは、
毎月給料が入ったら、車に給料の半分ぐらいを使っていた。
結婚しただけで半分も使われへんようになったのに、
子供生まれたらもっと使われへんようになったとか。
現実をみてしまうわけじゃないですか。
比べようがないものを比べてしまったりとかするから、
幸せからどんどん離れていく。
年収700万になったらと思っていても、
700万になったら700万分、
やっぱり会社では働かなきゃいけないわけですよね。
ちゃんと700万をもらっていることに対して、
等しい働きや等しい以上をしないと、会社は幸せ感を
感じへんから、段々結果がでなかったら疎まれたりもする。
そうなる前に、幸せになるだろうと思っていたことが、
実際なったり手に入るとそうではなくなるというのも、
期待だけで中身がなかったり曖昧だから手に入った瞬間、
幸せでなくなってしまう。
だから幸せっていうものの認識の仕方としては、
今足りてる物を知るっていうことですよね。
もう当たり前だけど。
賃貸だろうが持ち家だろうがマンションだろうが、
住むところがあるというのは足りている。
ベッド・布団も足りている。
当たり前の足りている物を知った上で、
じゃあ今こういうふうに足りていて、
今満足できているところがあるんだ、と、
満足と感謝を知るということをやってから、
その上でさらに幸せを求めるのをやると、
その足りていない感覚とか不幸せ感というのは
なくなっていくかなと思います。
それなしに、もっともっとだけをやると、
ずっと幸せではないですよね。
お金があって事業が上手くいっていても幸せじゃないとか、
人が集まっていていつもニコニコ笑っているけども孤独だったり。
今足りているものを知って、満足と感謝を知ってその上で、
さらに幸せを求めていくから、より良くとか
まだ知らない幸せを体験したいという側に行きやすいですよね。
無いから欲しいではなく、
足りているからもっと違う幸せとか、
さらに幸せっていうのを求める側にいきやすいというだけです。
なんでこの満足と感謝が無く、
もっともっととするのがよろしくないのかというと、
これは品性とか徳とか人間性に影響が出るからです。
足りてることもなく、見ることなく、満足とか感謝もなく。
ただもっともっとだけを繰り返す人というのは、
哲学的な表現になると品性が卑しいとか、
宗教的にみたときに品性が乏しいとか卑しいと
表現されるものになります。
この『徳』というのですよね。
徳がある人の下には人が集まってくるんですよ。
でもめっちゃ甘い汁が吸えるような状態の人、
うま味を持っている人のところにも集まってくる。
だからその状態を『徳がある』と勝手に思い込んでいる
品性の乏しい人はたくさんいます。
あと、人間性っていわれるものですよね。
人を人たらしめているものがあるとしたら、
そういったものが著しく欠如していたり幼かったりします。
満足と感謝を知った上で求める人というのは、そこが
乏しかったり、卑しくなる、著しく欠けるということがないです。
でもそうじゃないと、著しく欠けていく。
だからうま味とか甘い汁を吸わせてくれなくなると
離れていくっていうことになります。
だから幸せっていうのはそういうかんじなのかなと思います。
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