の4つの記事で記事でお届けします。
『考える』ということは、問題解決であったり、
何某か(なにがしか)の方法であったり、
何かを解決するために必要な理解をしていくなど、
何かそういったことを取り扱っている状態というのが
『考える』ということになるかなと思います。
自分で筋道をたてたり、論理的になど、
理路整然と並べられる時というのは
『自分主体で物を考えて、事を運んでいる』というふうに取れます。
その筋道を立てるとか論理的にとか理路整然にというところが、
考える上でやはり重要です。
感情が湧いてきた時、嫌いな人に何か相談された時に
「本当はAの方がいいけど、嫌いだからBって言ってしまった」
というのは、これは考え方としてやっぱり正しくないですよね。
だから例えば、私たちと同じように、
何某かをお客様に求められて提供する時に
「感性が合うから、凄く共感したから頑張りました」とか
「いつもより一生懸命頑張っちゃいました」というのは、
一見すると良いかもしれないけれど、
それは感性が合わない人とか嫌な人とか全く共感しない人には、
いつもより手を抜きました。
というのをやる可能性がとても高いですよね。
だから考えるであったり思いを扱う時には、
感情や感覚に左右をされるのではなく、
必要なことを誰にでも必要なかたちで提供ができるように、
それを考える時に自分の感情がコントロールできていることになります。
このコントロール制御が伴っていないものは、
考えるというにはちょっと乱暴かなというふうに私は考えています。
しかし、乱暴な思考を扱う人はそれなりにいますよね。
だから相談しに行ってもかえって凹んじゃったりする人もいるし、
私みたいに一切共感とかしませんという人の所に、
めっちゃ共感して欲しい人が来たらそれも凹むから
何とも言えないんだけど(笑)
ただ本人の好き嫌いとか、その時の感情ですよね。
例えば家を出るときに、奥さんと喧嘩して、
出しなに娘が「お父さん最低!」とか言ってきたらめっちゃ凹むし
「嫁のせいで娘に最低!と言われた!腹立つ!」となったまま、
お客様と会ったときに「だからダメなんですよ、あなたは!」
とか言うようなことになったらこれもアカンじゃないですか。
だから考えるということは、何があっても一定の条件下で
自分が正しく機能できるように考える。ということが
出来ていることが一番望ましいし、
私はそれが考えるっていうことの基本だと思っています。
ここまでが思考というところになります。
感性というのは、思考の中でも出てきてきましたが、
ある意味直感的に働く、直感的な心の働きと言ってもいいかもしれないですね。
何かこういうふうにしようとかというのが無く、
ふっと胸の内に湧くとか、なにか頭の中に出て湧いてくるとか、
なにか閃くように聞こえるようにふって湧いてきた
直感的な心の働きというのが感性かなと思います。
感性を磨くというのは
五感の感覚が鋭敏な方が直感というのが働きやすいし、
そもそも働いてても気づかないぐらい体感が鈍いと、
言ったら直感の無駄遣いとか持ち腐れみたいになりますよね。
直感が湧きやすいのに、生活習慣によって
体感がめっちゃ鈍ってるみたいな。
1日中、数百の直感が火花を散らしているのに
「ああ私、全然直感ないんです」となっていたら、
これはもったいないじゃないですか。
直感とは、本当に人に備わる知覚的な力っていうのかな、
根本で生きていく力とか幸せになる力と同じように、
人に備わる知覚的な力というのが直感だと思ってるんですね。
それで力として備わっているものが能力的に長けていたりとか、
後天的にその直感を扱っていく才能に長けていたら
伸ばしていきやすいのはありますよね。
でもやっぱり感じるというところで見ると、五感が鋭敏な方がいいから。
ウォーキングしたり散歩をしたり、
季節ごとの自然の風景を目にとめて、
草木とか虫とか鳥とか動物のその生きている命というのかな、
自然の息吹を感じるようなその概念があって、
そういうふうに歩いているだけでも違ってくるかなと思います。
街路樹もよく見たら虫とかいっぱいいるし、街の中も虫飛んでるし。
猫とかネズミとか出てきてる時もあるし、
夜だったらイタチとか出てくるし。
歩いていると、なんか草花とか小さいものとかからも
命の波動というか振動っていうのかな、
そういうのを感じるようにもなってきます。
散歩は一つの例えですが、でもそうやって歩いていても、
最近は特にスマホを見ながら歩いていたりしますよね。
スマホを見ながらだったり、下を向いて歩いてる人が多くて、
いったらスマホの高さより上にある空とか木々とか、
ビルの合間に鳥が飛んでるとかというのに
気づかない人も多いじゃないですか。
あれは五感を限られた範囲内で使って、
言い換えれば世界を狭くしている状態だから、
その狭い世界の中でだけ五感が働く形に変わっていくんですね。
言い方を変えると、
それは感覚をちょっと抑えたり閉ざしている状態に近いから、
そういった意味では直感が働いたとしても
それを感じにくかったりするし、
直感じゃなくてもその心の声というのが何かを発したとしても、
気づかなかったりします。
耳の遠くなったお年寄りに耳の近くで
「お昼できましたよ」って言ったとしても、
聞いた方のお年寄りが「孫は8才になりました」と答えるのに近い感じ。
だからその心の声というのが働いて訴えかけたとしても、
聞いていないとか何か違うものに変換されると、
やっぱりもったいないじゃないですか。
だから身体感覚っていうのはある程度は鋭敏な方が良いです。
散歩とかだったらお金をかけなくても、
1日20分、30分とかやろうと思ったらぶらぶらとできますよね。
その時に外の景色や草木など、そういったものを見て、
見る・聞く・感じるというのを意図的に使う時間を増やしていけば、
感覚というのは鋭敏になっていくし、
感じたものを認識して言葉に変えていくというのも
できるようになっていくかなと思います。
「そうなりたいです。3日やったけどできません。
どうしたらいいですか?」ではなく
「いやちょっと5年くらいそれやりませんか」と思いますけども(笑)
すぐすぐは無理でも、そういうふうに自分の心持ちを持って、
そういう概念を取り入れて、一定期間そういうふうに過ごしてみる。
そうすると、必ずそちら側の才能であったりとか
能力であったりとか感覚というのは、やっぱり育っていくものなんですね。
育ち方に人によって差は当然あるけれども、
やはりそういうことをやっていくと自分の感性というのが発達し
磨かれていくし、直感的なものというのの働きもよくなりますし、
それを自分で感じるということにもどんどん上手に長けていきます。
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