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【思考と感性】3、感情をコントロール

【思考と感性】3、感情をコントロール

思考と感性について

1:思考とは

2:感性とは

3:感情をコントロール

4:思考と感性が現実を作る

の4つの記事でお届けします。

 

 

感情をコントロール

 

感性というのは自分の内側にあるものではありますが、

何某か外の刺激に対して働きます。

全く何もない時には働かなくて、内側に問いかけている時というのは

これはおよその場合思いを巡らせるという状態になるし、

その思いによって刺激されたことについて考えたり、

考えたことに対して体感が刺激されていくというふうになるので、

これはちょっと感性が働くというのとは違うかなと思います。

 

見る・聞く・触れるなど、人と話すのもそうですし、

風景を見たり、絵や、何か凄く荘厳な建物を見たりというのもそうです。

触れられたり、声を聞く、音楽を聴くとかもそうだけれど、

外からの刺激に対して感覚というのがまず刺激をされて、

その感覚に伴って感情であったり衝動であったり

欲望であったりというのが動き出します。

 

この動きだしている瞬間というのは、ある意味感情や衝動、

欲望に支配されている状態というふうにもとれますよね。

ほんの数瞬や一瞬であったとしても、そういうふうな状態と言えますね。

 

シュークリームとコーヒー

 

だからこの支配されている時間が長くなったりとか、

その支配を自分の理性とか意思でコントロールが出来ないというのは

あまりよくないんですね。

「自分の衝動とか欲求に正直なんです」とか

「自由に生きて良いんだよ」と言う人もいるじゃないですか。

それを言ってくる女性に対して、「すみません。

ちょっと失礼でセクハラになるようなことかもれないけど、

大事だと思うんで言っていいですか。」と。

 

「じゃあ、あなたが買い物してる時に隣に知らない男の人が立って、

あなたの胸を鷲掴みにした。

『もう凄く素敵なお胸で衝動が抑えられませんでした。』と言った時に

あなたはその衝動を素直に認めてあげられますか?」と聞くんですね。

そうなると、やっぱり質問を聞いて考えるんですね。

「それは犯罪で・・・」

「じゃあその犯罪じゃない範囲だったらOKなんでしょうか?」

となった時に、じゃあその犯罪じゃない範囲だとしても、

道徳的にどうなのか、人としてどうかであったり、

関係性上どうかなど、出てくるじゃないですか。

 

その線引きをどこでするかは、それこそその人に委ねるしかないんだけども。

その線引きが無く、衝動とか欲求だけが自由に動き回って

それに支配されてる人というのは、

それは感性が豊かとは言いづらいと思うんですよね、とお話します。

 

だからその感性とか直観に基づいて出てくる感情や衝動、

欲望というのは、その人の理性や意思によって、

制御できたりコントロールされる必要があると考えています。

 

海を背景に 株式会社ぱんだ堂範田遥洸

 

ここで思考と一緒になってくるのは、

思考というのも自分自身がそれを制御できる必要がありますよね。

 

ちゃんと筋道立てて論理が正しいかとか、

理路整然としていてゴールに向かっているか?というのを

自分でコントロールできてるときは考える。

感情・衝動・欲望とかいうのが湧き上がってきた時に、

理性と意思でコントロールできるというのも必要です。

 

なので暴力的でわがままな人がたまにいるじゃないですか。

あれは思考も感性も自分の意志と理性でコントロールできていない。

 

「もう俺は私は自由に生きてるんです」と言っても、自由ではなく、

それは『理性と意思によって自分をコントロールできない状態』というようにも言えます。

 

ー自由が良いよみたいな理論がありますよね。最近そういった傾向が強いような気がします。

自由は本当に良いんですよね。

私も同年代の方に比べると自由度が高い生き方はしてると思うんですけど、

だからといって私の自由が誰かの邪魔になったり迷惑になることはないし。

 

思うこと、考えることというのは本当に自由だと思うんですね。

 

自分の内側の世界だけで終わってる時は、

何を思っても何を考えても自由。

ただそれを発言する時には、その発言することによって起こってくる

責任について考える必要があるんですよね。

 

強みを生かす 手のイラスト

 

誰かが書いたブログであったり、SNSの文章に対して、

私が「何だよ。この書き方」「全然ダメじゃないか」

「母親失格だよ」と思ったとしますよね。

 

思うのは思ってしまったんだから「よし!こう思ってやるぜ!」と

やっているわけじゃないから仕方がありません。

 

しかし、その思ったことをコメントとして書いた時には、

当然責任が出てきますよね。

何でその赤の他人で人生の一瞬でもすれ違ったことのない人、

関わったことがない人がこの文章のここだけを読んで

どうして母親失格なんて言うんだろう、というようになった時には、

当然そこに対して何か言われたり、それが裁判になったとしたら、

負うべき責任が出てくるじゃないですか。

 

それを理解してやれているのか?

理解できずにやっているのか?でも

やっぱり大きく分かれてきますよね。

理解できずにやっている場合は、

その感情とか衝動とか欲望を自分の意志と理性で制御できない状態であるし、

言っても開き直ったり、何か逆に自分が責められたりしたら

「本当のこと言っただけやのに、酷い目に合わされる」みたいな

錯覚に陥ったりとかもするかもしれないですよね。

 

思うこと考えることは本当に自由で無限大だけども、

自由・無限大の中から何を表現していくかというのを選べるのが、

考える賢さであり、自分の感性・直感を正しく使えるということでもあるかなと思います。

 

 

 

範囲内でものを考えて、範囲内で感性が働いている

 

この感性にしろ思考にしろ、

どちらか一方の扱いに長けてる人というのは、

優位性というのは変わるけれど

反対側もそれなりに扱っていくということが割と出来るんですね。

 

しかし、思考をするということが著しく乏しい時に、

感性だけが発達していると、それこそ夢見る夢子ちゃんとか

夢夫さんみたいになってしまいます。

 

思考と感性が両方とも著しく発達していない、

機能していない場合というのは、

毎日会社行って帰ってきて、家の中でご飯食べて

一人でずっとテレビ見て寝てみたいな生活をしていても、

苦にはならならなくなります。だってそれだけで満たされてしまうから。

 

そういうふうな生活をしていることが悪いわけでもなく、

感性・思考が発達の度合いが乏しいというのが悪いわけでもなく、

そういうふうに生きていくというのが苦にならなくなる。

 

逆に言えば、どこからか日本人の夢と希望っていうのが

どんどん変わってきているとは思うんですね。

 

高度成長期というのは生涯雇用というのがあったり、

それ以前も江戸時代の話になったら

長屋の大家と店子は親子みたいな感じがあったりして、

よくも悪くも繋がりが密接だったり、

互いを思いやるというところもあったじゃないですか。

 

そういう時というのは、二十歳を越えたら男の人は結婚して

家庭を持って子供を持って一人前とか、

生涯の夢の一つがマイホームになっていましたよね。

そのマイホームがもう買えないという事実が分かってしまった時に、

次にいったのが高級車。

高級車だけじゃないけれどそれぐらいの金額のものを買う。

 

 

アパートに住んでいても、ポルシェに乗ってる人がいたりもしていました。

毎月、家賃とポルシェの維持費にかけるんやったら、

アパートのままでも生活していけるし不便ないから、

ポルシェにかけたいという人がいた時代。

だから高級車が一時期よく売れた時っていうのもあったかな。

 

じゃあその高級車も買えなくなってきた。

生涯雇用なんてもうないし、派遣になってきたとか、

なんだかんだ言ってサービス残業が増えて、

働くわりに手取りが少なくなってきた。

そうしてそんな1000万円を超すような車とか、当然無理です。

となってくると、今度はブランド品ですよね。

何十万円とか120〜130万円の鞄とか、

それぐらいで手に入る時計というふうになりました。

それを過ぎていくと、今度あまり持たない生活の人たちが増えてきて、

ミニマムな生活とか、物欲がないとか・・・。

 

そのように風に夢とか希望とかっていうもののサイズが変わってきたり、

分かりやすい形の夢、希望ですね。

これが変わってきたりというのがあると、

言ったらその範囲内でものを考えて

その範囲内で感性が働いているほうが色々しんどくもない。

環境とか生活の中でそれだけで満たされていくというのが、

作られていくというのが一つあります。

 

 

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4:思考と感性が現実を作る