の3つの記事でお届けします。
選んでこうしようと思ったら、やってることが多いですよね。
途中でやめても気にしないことが多かったりするし。
ある程度やってうまくいかなくて投げだしたとか
中断せざるをえなくなったとしても
人はそこまでのやった内容に対して肯定しよう反省しようで終わるから
どういう行動の基準が作用してたとか考えないですね。
そもそも、『行動の基準』という概念がありません。
これは気付ければ良いとは思うけれども、気付けるかどうかよりは、
『選択の基準』と『行動の基準がある』
選ぶときに採用されてる基準と、バトンタッチしてやっていく側の行動の基準が機能してるんだよ。
と知っておくだけでいいかなと思います。
上手くいかなかった時に自分を責めたり、誰かを責めるっていう世界ではなく、結果として『選択の基準』と『行動の基準』がうまく機能していなかったんだな。
というところに行きやすくなると思います。
責めなくていいし、争わなくていいしですよね。
上手くいった時は、好きに自分を褒めればいいし、どちらの基準も、良好だと思っとくだけでもいいです。
意志が弱い、本気で望んでなかったんじゃないかみたいなの考えも出てくるけれど、それをどのシチュエーションでも採用していくと自己肯定感が育ちにくくなります。
システムとして見た時に、二つの基準、選択と行動の基準がうまくマッチングしていないという面を見て行くと、ひとまずは自分を責めるから離れられていいのかな。と思います。
例えば、家族で暮らしているのを一週間見た時に、喧嘩してもそれ以外にも笑ってたり、一家団欒が楽しかったり、色々な事がありますよね。
気付かないけども、うまくマッチングしているものもあるんです。
選択と行動というのは大きなものばかりではないですよね。
今日何食べよう。というような日常的なことも入ってきます。
親子関係、家族としての関わり方、夫婦、パートナーシップ、外に出ればサークル、職場の仲間、部下、上司。
うまくいっている『選択の基準』『行動の基準』の組み合わせもあれば、ちょっと感情を刺激するような組み合わせもあります。
生きているだけで成功例がいっぱいあるはずなんだけど、まずその概念がないから、成功例という形でみることがないんですね。
日常の些細なことから、そこそこサイズが大きなものまで。
万年補欠の子がホームラン打ったみたいな、神がかかってたね―!
みたいなのも含めてみてください。
運が良かっただけと言う表現も悪くはないんですが、運がいいで済ませるのではなくて、再現できる可能性はあるから知っておくといいですね。
再現性っていうのはあるんですよ。
奇跡的にその一回だけというのは少ないと思います。
似たようなシチュエーションになると、本当だったらその組み合わせが採用される可能性が高いです。
でもその万年補欠が満塁ホームランを打ったりするような時は、あまり考えずに無心で進んでいたり、何の気なしにやったらうまくいった感じが多いかもしれないですよね。
それが期待されると、プレシャーになって迷っちゃって、いい組み合わせができなくなったりする。
信頼するとか任せるのはいいけど、過度に歪曲した期待をのせてしまうのはよくないですよね。
純粋に信頼して能力的な出来るという期待ならいいけれど、期待の中には歪んだものが入る人もいるので。
全く期待されてないときに働く基準がいい感じで組みあって、でっかい成果を出した。
遅咲きでも咲いたなら、「もうひと花さかせてやろうぜ!」と期待されたとします。
期待されてる時に動いてくる『行動の基準』と『選択の基準』は、また違ってくる訳です。
期待に応えなきゃ、期待に応えられるだろうか?と、思考のどこかに生まれてくると、無心にとか、何も考えずになんとなくやった時に上手くいっちゃったという時の基準が採用されにくくなります。
そういう時には思考があちこちに移動して「あぁでもない。こうでもない」「うまくいかなかったら…」とか、もっと上手くいったら期待されるだろうか、とか。
無意識から機能してくるものというのが、自分と繋がりにくい状態になりますよね。
その時に採用される『選択の基準』と『行動の基準』、特に『行動の基準』は思考がすごく反映されてたり、思考の影響を受けてきます。
不安な要素や、失敗したくないと思っていたら、ありとあらゆる失敗のパターンを無意識下では検索していく訳ですよね。
ありとあらゆる失敗を反映した行動基準がなぜか選択されてしまう。
映画では老師とかが「平常心じゃ」みたいに言うけど、状態で言うとアレに尽きるんですよね。
プラスとマイナス、良い悪いではなく、両方をうまく使っていこうと思ったら、プラスにはプラスの利点と利得、マイナスの利点と利得、どちらからみても0の状態であることが、どちらの影響もなく選びやすい状態になります。
それが平常心であったり、ニュートラルと表現されるものになります。
その状態だと、どちらの影響もうけていないから、どちらも選びやすいです。
自分で選んで決めていきやすい状態であり、選ぶという『選択の基準』と、決めて動く『行動の基準』を自分で選びやすくなります。
結果として上手くいかない。
失敗につながったものは、反省したり落ち込んだりするよりも、
忘れないようにノートに書き込んでおくといいですね。
反省とか否定することではなく、ただ、事実として書いておく。
上手くいったこと。
こう考えてこう決めてこうやったら、こういう結果になりました。
上手くいきました。
上手くいったのと、そうでないことで分けましたが、
これが、考えて決めて選んで行動した結果のリストになっていくのです。
上手くいく側が増えれば増えるほど、その人の中には選択と行動の基準の上手くいく組み合わせができていくわけで、上手くいかなかったときにも、選択と行動の基準の上手くいったがでてくるわけですよね。
上手くいかなかった時の共通点があるとしたら、どこかで気付く可能性が生まれてきます。
上手くいかなかった事への気付きなどがあったとしたら、思考錯誤していく側に入っていきやすい。
上手くいく側も似通った気がするな。
似通った何かに気が付いたという実績があって、似通った何かが、上手くいってるという概念ができる。
そういういう視点で見て聞いて感じて考える、が以前よりしやすくなってきます。
上手くいった時の『行動の基準』ですよね。
どういう基準で動いた時に上手くいくのかを知る事が出来る。
ちょっとずつ気付いて知っていくに尽きるんです。
概念をもったら、それに沿って思考とか感覚を使っていけるようになるというところから入って、一定期間、気付こう、知ろうとすることが大事ですね。
30年50年も山にこもって滝行をする必要はないけれど、半年から1年くらい、そこに気付いていこうという視点で日々自分を見ることは必要だと思います。
出来るようになりたいと、割と気軽にみんな思うけれど、何かを出来るようになるというのが向いてる人と向いてない人がいるじゃないですか。
スイカを食べる。スイカを切る。とかはできる人が沢山いるけれど、すいかの上に二時間立っていることが出来る人となると少なくなりますよね。
同じ1つの物事に対して、どういうふうな関わり方なら出来るけれど、それ以外はだめというのも人の中に出来ますから。
まずそれが出来るようになる。
分かるようになるのを目指すのは良いけれど、最初は、何をやってんのかな?
こんなにやってるけど全然わからない。
と思えるくらいの時間を、土台作るために自分を観察していくような期間はあるほうがいいですね。
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