「天然おんな塾」を主宰されている板垣昭子さんに
カウンセリングの視点でお話を聞きしました。
5部に分けてお届けします。
ぱんだ:早速ですが、あっこさんは、その人そのものに寄り添う形でいろんなことを進めていくようにわたしには見えています。 個人セッションもそうだろうし、グループで関わる時もお子さんたちにもそうだからです。
そこに、いろんな学んだことを使われていますが、今回はその中でもカウンセリングの視点でお話を聞きたいと思いました。
板垣さん:はい。
ぱんだ:カウンセリングや心理に対して興味を持ったきっかけがありましたか。
板垣さん:アメリカの大学に留学中に、一般教養課程で心理学を取りました。 プロでカウンセラーの方が教授でした。まずその授業がとても楽しかったっていうことがあります。
それから、その時の友達にいろんな宗教や民族背景の人たちがいました。 宗教を変えた、という話題の時に、いわば「神様をすげ替える」ということが、心理的なハードルがとても高いんではないかと感じたんです。日本人で、ほぼ無宗教なわたしにはその感覚があまりわからないけれど、宗教について、別のジャンルなのにもかかわらず、なぜか心理的な影響がとても大きいはずだと思いました。
そして都会だったこともあって、まわりには生物学的な両親が揃っていて今も同居していて、両親として交流しているっていう人がほぼいない状態でした。特にアメリカ人の場合、どちらかが義理の親だったり、異母兄弟が一緒に住んでいたり、そこでいろんな問題が起きることが普通で、自分が暮らしてきた背景と全く違っていたということもありました。
そういうことがあって、宗教と心理学っていうテーマで宿題の論文を書きました。そのあたりからです。
あまりにも成育の環境が様々過ぎて、問題も日本のように単純ではなくて、 お母さんにこうしてもらえなかった、お父さんがこう言った、というようなシンプルな状況では、ほぼないことも含めて、どうしてこうなっているんだろうってその時から興味があったと思います。
ぱんだ:日本という背景とアメリカという背景だと、その複雑性や深さとかで、 問題がどこから来るのかが変わってくると思うんです。 宗教についても、たとえば日本の門徒衆の一向一揆だと、戦って自分が死ぬことで極楽浄土に行くっていう面も強かったじゃないですか。言わば自分が死んで極楽に行くた めに戦う。西欧諸国やイスラム圏だと、自分が死ぬことになったとしても、それは自分が死んで極楽に行くためではなく、宗教と自分が信じる神のためにやるのが当たり前だみたいだから、内向的な働きと外向的な働きとやっぱり違ってくるように思うんですよ。
板垣さん:そうですよねえ。
ぱんだ:あっこさんがアメリカでそのように興味をもって学んだ事を、日本で使っていくときは、こうしていく必要があるっていうのが明確にわかっていたのか、それともやりながらですか。
板垣さん:自然と取りかかったのはもちろん、自分自身の問題からでした。カウンセラーやセラピストになりたいという人の多くがそうであるかなと思うんですけど、心理的にどうやってここまで複雑化するのかと。
その時に今の師匠でもある方の最初の著書をたまたま梅田のロフトで手に取りまして、「この捉え方はつじつまが合う」と思ったんです。というのは心理学ではあるんですけれど、スピリチュアリティを否定していなくて、例えば神でも仏でもご先祖様でも、有効であるならば、自分よりも大きな力を持っていると思える存在をも認識してみましょう、という手法なんです。
これは宗教と心理学という、わたしが絶対切り離せない、深く関係があると思っていたことにもすごく関係する本だと。ワーク形式になっていて、その時抱えていた問題を全部書いていったら、当時の状態もかなり読み解けたんです。 その後ある雑誌にその手法が載っていまして、掲載されていた事務所に電話したのが直の師匠です。
ぱんだ:心理学にしても科学にしても、西洋の方達は自分たちが分かる範囲とそれ以外を、神様の領域とかスピリチュアルな領域として当たり前に受け入れていることが多いんです。日本で発展している心理学は割と学問という 形で収まってるから、これ以外はけっこう採用されませんね。これは何で起こるんでしょう。
板垣さん:大学でも心理学の勉強は、フロイトやユングという何百年も前の精神分析などの歴史を学ぶものでしたので、現場での実践的な臨床心理学は また別にあることが分かりませんでした。まず歴史を机上で学ぶことと、実際に誰かを楽にできるものは別なんだと知りました。
師匠は1970年代ぐらいから来日されていて、スピリチュアル第一世代とかニューエイジの最初の世代の人たちが模索する中、師匠のセラピーに参加された方も多かったようです。
イギリスやドイツなど世界中をベースにセミナーをしていた師匠が、感情についてはよく、日本で学んだんだよと聞いています。キリスト教がベースにあるアメリカやヨーロッパでは、生きていること自体が罪、という原罪というものがあって、その意識が大き過ぎて感情を表しにくいのではと。日本人は守られた島国で、家族とか血縁の結束も強くて、日本民族全員家族みたいなところで、ある意味温室というか、暖かく育ってきているところもあると思うんです。 中東とか風土の厳しかったところと比べてです。そうすると感情が、悪く言えば幼稚な部分もあり、その分男性であっても感情が豊かでストレートなところ もあるんじゃないかと思います。
ぱんだ:日本は、昔貧しくても笑顔が絶えず心が豊かだと表現されていた時期があったと思うんですね。そういう時期は家族を家の中で看取るとか、生活が貧しくて朝から晩まで働かないといけないという暮らしでした。その中で身体は幼くても自然に強くもなるし、大人の言ってることもわかろうとします。精神的な成長の度合いが高かったと思うんです。でもそれがなくなっていくにつれて男女や年齢を問わずに考え方や在り方、感情の処理の仕方とか表現の仕方が幼い人がある一時期から増えてきたと思います。あっこさんも多くの人を見ていますがどう思われますか。
板垣さん:幼い代表かもしれないんですけど。
ぱんだ:あっこさんは、天真爛漫とかこだわりがない感じです。純粋だけど、しっかりしてたり。自分の感情も人の感情もそのまま許せますよね。そこが未発達な人は自分の出し方や感じ方も下手だけど、人の感情や考え方を受け入れ難そうな感じです。
板垣さん:嬉しいです。
幼いというのは近代になってからだと思います。核家族化で兄弟も少なく、身近でいろんな関係性にもまれて鍛えられる機会が単純に減ったこと。以前からあった男尊女卑や儒教の影響と、昭和以降の高度成長期で豊かになり、専業主婦が増えて、子どもが男女関わらずお母さんが全部用意してくれて大事に育てられた、それを母子カプセルなどと言うようになったのも昭和ですよね。
私もこの前、大人ってどういう存在だろうかと40代女性に聞かれたんですけども、子どもがいる人じゃないかなって思うんですよね。
ぱんだ:ひとつ条件としたらそうですよね。
板垣さん:もしくは子どものような存在としての、生徒さんやクライアントさんがいらっしゃるとか。
ぱんだ:そうですね。お客さまにそういうふうな関わり方をすることも含めてかなと思います。
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