彫刻家の長谷川寛示さんとの親子対談記事です。
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>責任
ぱんだ:例えば今の話にあった歴史があるもの、元になった事実があって歴史があるけど、時代 が流れてそこから離れると、いわばそれは単なるファッションになり得るわけやんか。言ったらこれは本質と歴史とファッションと捉える人たちの間に、価値観が違っていたり世界観が違っていたりするっていうことやん。
寛示が作った鋲の革ジャンの作品も、ハーケンクロイツを反転させて卍にすると言うことで、仏教であったりお釈迦様の教えであったり、人がみんな平等だっていうことを表してても、 卍を知らない人はハーケンクロイツでそういう印象を持ったりするわけやん。だからその矛盾を今後も感じるかもわからへんよね。その矛盾には自分ではどういう姿勢で向き合うの?
寛示:矛盾に向き合う…自分の表現したいことと、受け取られることが矛盾してるって言う事?
ぱんだ:そう。寛示はハーケンクロイツを反転させて卍にして意味も反転してる。
寛示:そこが伝わりきってないって事?
ぱんだ:あれをパッと見てハーケンクロイツをイメージした人が、これは何て作品や、こんな作品にするなんてこんなもん展示するなんてって言うわけやん。
寛示:このネオナチ作家が!って言っていっぱい苦情がきてあの作品が撤去されたから、伝わらんなぁみたいなことは確かにある。でも伝わらんからって言って自分が悪いことしたとも思ってないし、ああ伝わらんかったんやなぁって言うところではある。
伝えていく努力は作家として必要かなあとは思うけど、でも同時に伝わらんからこそ作品のコンセプトになり得たとも思ってる。というのは今までそういう事を言ってきた人がいなかったからこそこれを作品にしたいと思ったわけで、そういう意味では伝わらないからこそ作品の芯になるというところもあって、そこをどうバランス取っていくか。とはいえ伝わらないととは思うし、伝わらないが故に僕の作品を見て傷ついた人もいたと思うと、その辺はもっとバランスをうまくとっていけるといいなとは思う。
ぱんだ:例えば落語は寛示も俺もお母さんも好きやん。でも落語の中には、聞く側に知識とか教養がないと笑われへんとかわからへんものとかいっぱいあるわけやんか。これは私の個人的な考え方やけど、人ってある程度ものを知ってて、平等に考えたり知覚とか視野を広く持っていないと正しく物事を見れないとか、自分がよくわからないものに出会った時に、これは何だろうというのを考えることができないと思うねん。
そういう風に関われる人が結構減っていってて、どっちかって言うとネオナチ作家みたいな感じで、よく見たら反転してるでしょうとかって言うので、反転してたら形は何なんだろう、じゃあなぜ反転させてこうしたんだろうかっていうところまで考えへんっていうか。そういった人たちに出会った時に、どこまで自分は相手のことを考えれるか。
寛示:別の側面を見れば自分にも多分そういうところが絶対あるし、こいつ全然考えてねーなって思われてるタイミングもあると思うし、みんなそうと思う多分。
例えば何かの知識に秀でているからといって、別の分野にも同じくらい気が利くかって言うと、それはそういう人もいるかもしれないけど、そうではない事も多々あると思う。例えば最近だったら、 性差別とか性の多様性とかって話になった時に、この人そんなに頭固かったん?みたいな。SNSのやりとりとかっていっぱいあるわけやん。
そう思うと、そこら辺はいかに柔軟に考えられるか、自分の思ってたことと違うことが世の中で起こった時に、あれ本当はそっちが正しかったんかなとか、そういう考え方もあったんやという事に、 いかに自分で自分の考えを修正して行けるかって言うか。
そういう意味では確かに、落語にしてもアートにしてもリテラシーは必要やと思う。ある程度の知識がないと見れないとか、見方が分からないということは確かにあると思うけど、でも見方が分からないことが悪いことでもないし、例えば落語のオチ聞いて笑えないとかはその人のせいではないと言うか、実際世の中はそうなってないとか、そんな事言う世の中じゃないとかそういうことも多々あるから、落語のオチとかってほんと今聞いたら、下品やなあで終わる話もいっぱいあるし、 全然笑えやんみたいな、むしろ不愉快みたいなものいっぱいあるし、だからなんかそれを知ってるから偉いわけでもないし、知らんから悪いわけでもないって言うか。
だからそこをどう共有していくかが大事なんやと思うし、リテラシーは持っていくということもそうだけども、リテラシーがない、わけわからんと思う人たちにいかに伝えるフックを持っているというか、そういう事の方がこれからは大事なんかなとは思う。
ぱんだ:例えば考え方とかって人それぞれやん。でも自分が人の話を聞くときは、この人は何を言おうとしてるのかとか、何でそれを言ってるのかとか、その何でに対してずっと興味を持つねん、 良い悪いとかではなく。一つの体験をして、こっちから聞くと事実体験したことと言ってる内容が違うけど、どうしてこの体験をそう認識してるんだろうかとか、これはその人の中でどういう意味があ るんだろうみたいなことを、ずっと気にかけながら話を聞く。だから割と何か知らないことに向き合った時にも、「なぜ」ということをやるから、答えがなくても自分の中では良いも悪いもない世界 がどんどん広がっていく。 だからそういう感じで寛示の作品とかも見てるねんけど。
この間の展示会の作品を見てフォルムとか状態とかも含めてすごい気に入ったんだけど、寛示があれをどういう制作意図で、どういう風に形を現していったかっていうのは、正直正確なことは わからへんよね。 でもそこにある姿形を見て、これが木からどんどん彫られてこういう形に変わってくる時に、何かこういうことがあったのかな、こういうことがあったら面白いよなみたいなことを考 えながら見るということをやったんだけど、アートって表現するのも見て感じるのも自由やと思ってて、それこそ正解がないし自分の意図とは違うそういうことを感じてくれたんやっていうのもいっぱ い起こると思う。それは例えばフィードバックもらったら寛示の中ではどういう影響がでてくるの。
寛示:どういう影響が出てくるかは、自分でも気づけないことは多分多々あって、無意識に刷り込 まれていくようなこともあると思うし、いやそう受け取られると困るなあとか、そうじゃないのにって思ってたとしても、そうじゃないのになって思ってることが作品に影響してくるっていうか。 自分で制作してるとか自分でコンセプト立ててるって言いつつ、結局はやっぱりいろんなものの影響を受けて作品ができていくし、環境とか時代とかそういう自分じゃどうしようもできないところが作品の一因になってるっていうことはいっぱいある。
そういう意味では、意識して他の人の意見を取り入れてるつもりはないけど、そういう自分じゃコ ントロールできないものも含めて影響下にあるんじゃないかなとは思う。
ぱんだ:まだまだ目の前に製作していかなきゃいけないことがあるけども、その先を見据えて2年3 年とか5年くらい先の抱負ってどう?
寛示:一つにはちゃんとものを作って人に喜んでもらって、そういうサイクルが続いていく といいなとは思う。それは作品が売れるっていうこともそうだし、「この間の展示面白かったから、もう1回今度うちで展示しない?」とかっていうこともそうだし。物を作るっていうことで自分の人生が転がっていくといいなとは思っているかな。
ぱんだ:忙しいと思うねんけど体に気をつけていい作品を作って欲しいのと、あとはクリスマスに 間に合わなくていいからステッキを(笑)
寛示:クリスマスはちょっと無理かも。来年の誕生日やな。
ぱんだ:ステッキをお願いします。今日は話を聞かせてくれてありがとう。
寛示:ありがとうございました。
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